昭和五十四年五月三十一日
朝の御理解
御理解第五十八節「人が盗人ぢゃと言うても乞食ぢゃと言うても腹を立ててはならぬ盗人をして居らねばよし乞食ぢゃと言うても貰いに行かねば乞食ではなし神がよく覧て居るシッカリ信心の帯をせよ」ただ辛抱せよ、とだけは教えてないですね。
どんな事があつてもね、それで腹をたてるような事があっちゃならん。もう、それこそ、バカと言われようが、阿呆と言われようが、乞食と言われようが、それこそ泥棒と言われようが、神様が見ておいでの世界を、私共は信じて、いわゆる「黙って治めよ」と、言うことでしょう。だからそれを、「黙って辛抱しておる」と、言うことだけではなくて、ね、「しっかり信心の帯をせよ」と、仰っておられる、ね。
そこんところが頂かなければならんところだと思いますね。
 今日、私は、この「神訓」というところがありますねぇ。この「神訓」と、頂いたんです実は。この「神訓」というところね。教典のここに「神訓」とだけ。だから「神訓」と、言うのは「示し申す」と、書いてあるんですね。神という字を。訓という字は言偏に川が書いてある。三本川、ね。言うならば、「神様が示し申し下さることをね。言うならば、言って下さることを流してはならん」と、言うふうに、私は頂いたんです。
 神様が示して下さることを、それを、言うならば、水にしてはならない、ながしてはならない、反古にしてはならない。
 そして、次の御理解を頂きましたら、この五十八節でした。だからここでは、ね。神様が、言うなら、人が乞食ぢゃと言うても、泥棒だと言うても腹を立てないと、仰るのだから、それをただ、言われたと思うと、ね。自分が、いつ乞食をしたか、いつ泥棒をしたかと、こう言わなければなりません。けれども、「神様が聞いておって下さるんだ、見ておってくださるんだ」と、いう事が段々、信じられるようになると、言わば、腹が立たんようになる。だから、腹が立たんようになるだけではない。言うならば、「しつかり信心の帯をせよ」と。
 いや、それは、腹が立たんと、いうことではないかも知れん。
 本当に、とんでもない事を言う奴だと、思うかも知れん。ね。けれども、そういう時に、私共が信心の帯をしっかり、し直していくと、もう、それこそ、言うた者が気の毒なごとある。
こちらは、「おかげで信心ができます。」と、いうことでさえなってくる。信心の帯をすると、そういうことなんです。ね。
それを、例えば、「いつまでも意趣晴らし」と、こう申しますね。
「一遍はこんな事言われたから、言うて返さなならん。」と、言ったような事で、心を汚しとったんでは、おかげはうけられない。
いや、とにかく、神様の言われることを、例えば、流さず、ね。反古にせず頂くということは、例えば、なら今日は、五十八節を頂いたのですから、そういう場合であってもね。これを頂き貫く、という事が信心だという事になります。
 だからこれは、やっぱ貫かなだめです。言いわけをする、腹を立てる、そんなこというた。と言うてケンカをする。
それでは、言うならば、まあ、おかげは受けたとしても、それは、お徳にはならん。それを貫くうちにですね、昨日の、椛目の宮崎さんのお話ぢゃないけれども、ね。神様が心の中に与えて下さるもの、昨日の御理解、ね。「うちのじっちゃまは、必ず、もう亡くなられて十四年になるけれども、これだけででん、あの世でおかげ頂いちゃると思う。」と、いう心が許されるのです。ね。
 当時の椛目に、誰も肥の汲み手がなくなった。あんまりたまるから。まあ、その当時は、もう言うなら肥もあんまり、言うなら科学肥料のようなものが、と言うて、その時分にまだ、田舎の方に、今自動車で肥え汲みとりさんが来ると、いったような事もなかった時分ですから、ね。それを、宮崎友足さんのお父さん、ですね。じっちゃまと夫婦で「もう、金光様んとは俺とお前で、もう、あぐることにきめようぢゃないか」と、ね。で、それを長い間、実行し貫かれた。初めて私はそれを、ね、敬親会の時に聞かせて頂いてです、許されるもの。一番、私は昨日の御理解の頂きどころは、ここだったと、思うんですけれどもね。汚いこと、人のいやがる事、それを黙ってやって貫く、と言うこと。言うならば、「奉仕する」と言うこと、「仕える」と言うこと。ね。
 「普通、一般の者がすること。」「いや、毎日参ります。」とか「毎日お供えしよります。」とか、と言うようなものぢゃない。もう言うならば、人の嫌がること、ね。しかもきたないこと、それを俺達夫婦でやってのかそうと、やってのかされた、と言うこと。貫かれたと、いうこと。そこに、もう、理屈ぢゃない、与えられとるものがある。ね。「うちのじっちゃまは、あの世でも、もう、これだけででん、おかげ頂いてござると思います。」と、こう言うものがうまれてくる。例えば、なら、今日の御理解でもそうです。普通誰が言うても、バカと言われたり、阿呆と言われて腹かかん者はおらん。「俺が、どこがバカか。」と、乞食と言われりゃ、なお腹かく。もう、それこそ、泥棒とでも言われりや、ね。それこそ、裁判沙汰にでもしてからでも、真実を明かそうとする。例えばですよ。
 ところが金光教の信心は、それではお徳が受けられんです。言わば、「バカと阿呆で道を開け」とも。又は、「ここを、いっちょ土の信心で受けていこう。」と言う。だから、「それに徹する。」ということ。しかも、ここでは「徹するだけではない、その都度に、しっかり信心の帯をしていけ。」と、こう仰っとられる。ね。それを、言う事を聞く。「神訓ということは、示し申す」言うこと、ね。
「神様がしめされることをです、流すな。それでは、お徳がうけられない。」ね。
 本当に徹しなきゃいけんです。金光教の信心は。そこにです、いわば、黙って治める事の楽しさ、ね。喜びが頂けてくる。同時に、言うならば、腹もたたんわけぢゃないけれども、そこに、しっかり信心の帯をすると、腹の立つだんぢゃない。そういう事を、言うならば、言う人なら言う人の事に限って同情がわいてくる。その人の事を祈らずにおれないものさえわいてくる。土の信心とは、それです。
 受けるだれぢゃない。相手にもまた、おくり返してやる、よいものを。それが、土の信心ですよ。ね。
 私は今日は、その神訓ということを一つ、聞いて頂きたいと思うです。神訓と、いうことを、ね。所謂、この活字を分解すると、申す。ね。言うこと。
 言偏に三本川、ね。言うこと、示すこと、申すこと。神がですよ。
それは、ね。
 神が言う事を流さずに聞きとめる。自分の、言うならば、生き方の上に、それを頂き貫くという事なんです。ね。そこに、私は、お徳が受けられる。ね。しかも、ね。例えば、泥棒とか乞食だとか、もう、いよいよ悪言の上にも雑言と言ってもいいでしょう、ね。
言うならば、ね。誰でもきたないことやら、ね、金にもならない、一銭にもならないような事をです、すすんで御用でもさせて頂こうと言う人は本当に少ないです。ね。それを、二人で貫こうぢゃないかと、いうところにです。勿論、なら、霊様もおかげ頂かれただろうけれどもです。おばあちゃんが「このことだけでも、おかげを頂いてあると思われる」と言う、そういう心が許されるのです。ね。
それが、なら、段々垢ぬけしてまいりまして、今日のご理解のようなところになって参りますとです。それを貫くところにです、これはもう、神様が与えられるものです。おかげになる、おかげになると言うような確信の心が与えられるのです。ね。そして、これが貫くことによって頂く御神徳であろうと、いうようなものを自分でも感じられるようになる。それを、仇おろそかにしてごらんなさい、自分のごたるとは、いつも、神様の言うことを流してしまいよるから、自分のごたるとはお徳がうけられんぢゃろうと、自分で決めてしまわんならんような結果がうまれてくるわけ。ね。
 夕べ、私ここにおそく、もう十一時半頃だったでしょうか、ある修行生の方が、ここにお届けに来た。私が出てくるのを待っとったのでしょう。頂くことが『仕え奉りて申さくは』と、祝詞の中にあるでしょう。『仕え奉りて申さくは』という言葉がありますよ、ね。
どういうことだと思いますか。
 私の部屋に、備前焼きの仕舞いの人形が、飾り棚の上に飾ってあります。私は寝む時に、見らんでもテレビをちょっと引っ張って見るのです。いつも、神乍らなものを頂くから。
 昨日は、京大教授、名誉教授の何とか、と言う、有名な方ですけれども、その方のルネッサンスの何とか、と言う話をしておられました。そして、一番引いたとたんに画面に表れたのは、大きな仕舞いのケース入りの人形であつた。何ぢゃろうか、と思ったら、その方がルネッサンスの話をしておられるところであった。私が部屋に入って一番、この『仕え奉りて申さくは』と言うことを頂いて、あヽ、仕え奉りて、と言う事は仕舞い、ね。仕舞いと言うことは、仕え奉ると言うこと。例えば、私共で言うならば、ね。こうして、神様の御用に使って頂く、と、いうこと。仕え奉る、ということ。ね。
そして後に、申さくは、で、なからなきゃいけん。
 それが、私がいよいよ、ね、頂いたもの。そのテレビの画面に現れてきたもの、もう、いよいよ「仕え奉りて申さくは」で、なからなければ、本当のおかげにならんな、と、いうふうに思うです。只頼んだ願った、だけぢゃいかん、ね。例えば、大祓信行なら大祓信行とは、もう神様がままになられる。御神飯をお供えするも同じこと。だから、五巻なら五巻、十巻なら十巻あげると決めたら、あげなければ、ね。神様にひもじい思いをさせなければならない位な思いで、言うなら、毎日奉唱、ご祈念をさしてもらう、ね。無条件、これは。これなんかは、仕え奉ることです。神様に奉仕をすること仕えること。神様の御神飯をお供えするようなもの。その、仕え奉った後に申さなければならない。仕え奉りて申さくは、願うと言うこと。ね。只、仕え奉りもせずに、奉仕もせずに、只、願う、頼む、と言うこと。成る程、神様は、おかげも下さる、聞いても下さるんですけれどもね。本当の、私共が神様に願うということは、まず先に、仕え奉って、後に申さなければ。『仕え奉りて申さくは』。あヽ本当に、お祝詞のことばちゃむごう出来とる。と、私は改めて思った。
 神様には、まず、お供えならお供えを、まず、りっぱにさせて頂いてね。それこそ、海川山野の種々のものを、神前に供え奉りて、ね。そして、お願い申すことは、次のこと、と、こう言うことになってくるてでしょう。これは実際、信心生活の上に於いても、そうなんだ。ね。仕え奉りもせずに、大祓信行もあげたり、あげなかったりで、どうぞどうぞと、お願いして、本当のおかげになるはずはなか。ね。
 そりゃ、例えば、おかげになる、ならん、と言うことはね。それは、それこそ、仕え奉りも何もせんでも、おかげになるのです。
けれども、願えばおかげになるような事もあって、初めて、次の信心に、すすんでいくわけですけれどもね。
 昨日も、丁度、四時の御祈念終わらせて頂いたら、電話がかかってきた。私が、まだ御祈念・・・、それで、池田先生か何かが、かかった。ここ四、五日、宮崎の方から延岡です、ある難儀な問題で、ところに、田中恵美子先生からお導きを頂いて、「とにかく毎日電話をかけなさい。もう、親先生のお声を頂いただけで、必ずおかげ頂きます。と、言われたから」一番初めの日に、「毎日お電話をさしあげたいと思います。で、先生のお声を一声聞いただけで電話をきりますけれども、よろしいでしょうか。」と、言う事であった。「あヽ、いいですよ」と言って、四、五日毎日続いておりました。昨日の朝「かかってこないな」と思ったところが、昨日の朝、「火事があつた、と、隣まで焼けた。自分なもう、無我夢中でわからなかった」けれどもです。もう、いよいよ、伊東さんといったかね、と言う方なんです。の「もう焼くる」と思って、もうそれこそ瞬間的にですね、その燃えてきとる火が一本立ちになったそうです。
そして、反対の方向へ吹いた、ち、焼けた方。も、それを見ておった人から聞かせて頂いて「まあだ、合楽に参った事もない、只、毎日、親先生のお声を聞いておるだけなのにです。こういうおかげを頂いて」と、もう、とにかく信心のない主人が、「お前が毎日合楽に電話かけよるけんじゃろう。」と言って、喜んだ。
「とにかく、お礼を申しあげなければおれないから。」と言うて、ま、四時の御祈念が終わるまでまって、そして、私に電話を。それこそ、私の声をきかれただけなんです。ね。
 だから、おかげと言うのはね、それでもおかげ頂くでしょうが。
ね、皆さんでも。んなら、仕え奉らんでんやっぱりお願いして、おかげ頂きよるでしょうが。
 けども、ここんところではです、私は、どうでもしっかり信心の帯をせよ、バカと言われても、アホと言われてもです、も、腹を立てずにです、ね。それこそ、神様が顔を洗ってくださる、ね。神様がここんところは、もう、神様が、それによって私共に力を与えてくださる。それを貫くところから、自分のこころに与えられるもの。
それは、「うちのじっちゃまが、おかげ頂きなさらんはずはない」と、こう思う、その思いが、神様から許されておる心なんです。
それには、人のいやなこと、人のせんこと、ね。それを夫婦二人でこれをやりぬかれた、と言うところに、そういう心が与えられておるのです。
 いっちょ皆さん、人のせんごたることを、しかも、神様が喜んでくださるようなこと、を、ね。いっちょ、思い立つといいですよ。
それをつらぬいてごらんなさい。必ず神様は、それに、おうつりを下さるです。それが、こころに安らぎであり、安心であり、おかげが頂ける、と言う確信である。それが、積もり積もって、御神徳ともなってくるのです。ね。願うにいたしましても、仕え奉りて申さくは、と言う事にならなきゃいけない、ね。例えば、私が御結界の奉仕をしだごだにしといて、ね。仕え奉らんで、そして神様に、「どうぞ、お願いします、お願いします」と、言うたっちゃ人は助からん、と、私は思うです。これは、「仕え奉りて申さくは」と、言うことは、そういう素晴らしいことであつた事に、改めて夕べ気づかせて頂いたんです。ね。だから家で。なら、例えば、ちょっとしたお願いをさせて頂くでも、まず、仕え奉らなきやいかんです。ね。
 皆さん、今日、私が言った事を、「そうだ」と、実行して下さるならば、言うなら、一番初めに、今日、頂いた神訓と言うことを聞いた事になるのです。
 神が示してきたこと、言うたこと、申したことを、ね、流すなよ、と、言われたから、それを流さんで受けとめた、と言う事になる。
それを、なら、今日だけではない。それを、貫くと言うことに、皆さんが精進される事になる時に、はじめて、「しっかり信心の帯をせよ」と、いう事になり、しっかり信心の帯をしたあかつきに、どういう事になるかと言うと、ね、腹を立てんですむ。言うならば、御神徳の世界を知ることになり、頂くことになると思うです。
 一つ、今日は、「仕え奉りて申さくは」を、しっかり覚えといて下さい。「どうぞ」